玉本英子さんのお話(その3)〜イスラム国に迫害されたヤズディ教の人々

2月3日の「玉本英子さんの話を聞く会」で玉本さんにお話ししていただいた内容をまとめました。4回に分けて掲載します。3回目は、イラク北部に暮らしていて、イスラム国(IS)によって徹底的に迫害されたヤズディ教の人々についてのレポートです。

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次に、イラクの話をします。イラクの中で、ISから徹底的に迫害された人々、60万人ほどいるヤズディという少数宗教の人たちの話です。今日お伝えするのは、地図でお見せしますが、イラク北西部のシンジャル地域に暮らし、ISに襲撃され、迫害を受けた人たちです。ヤズディはシンジャルから東側に位置するクルド自治区にも暮らしてきました。ここはイラクの中でも比較的治安が良く、守られているところです。今日はこの西側のシンジャルで迫害された人たちについて、話したいと思います。

はじめに、ヤズディとはどういう宗教なのか。これがシンジャルにあるヤズディ教の聖塔で、ヤズディの人たちはお休みになると、ここにお参りに行きます。ヤズディのお母さんは、白い布を頭に巻いています。イスラム教徒の女性は、日本にいる人も、頭を隠すという意味で、スカーフを頭に巻いている人がいます。ヤズディは別に頭を隠す必要はないのですが、文化的な意味で巻いている人が多いです。白い綿の下着を好んで着ている人が多いのは、白い綿を着るのが「清い」と考えているからのようです。

ヤズディ教は非常に古い古代宗教ですが、なぜISはヤズディ教徒を攻撃したのか。その理由の一つが、ヤズディ教徒が、孔雀天使を崇めていることです。神様は別にいるのですが、孔雀天使を信仰の対象にしているのです。ISは、孔雀天使は神様に逆らった「悪魔」であるとして、悪魔を信仰しているとみなし、攻撃の対象としました。しかし、これはISだけではなく、ずっと昔のオスマン・トルコの時代から、「悪魔崇拝をしている宗教」として攻撃を受けてきた歴史があります。

私は、この地域を、ISに攻撃される前から取材してきました。この映像ですが、聖塔の中に入ると、亡くなった人の写真がたくさん飾られています。イスラム教では、偶像崇拝につながるとしてみなします。ヤズディ教徒はイスラムとは違う宗教です。

2014年8月、その時、私は京都にいたのですが、ヤズディ教徒の友だちから電話で「助けてくれ」という連絡が来ました。何があったのかというと、「武装した人々が村を襲ってきたので、山に逃げた。たくさんの人が殺されている。助けてください。どうしたらいいんでしょうか?このままでは私たちは死にます」。ISがヤズディ教徒の村々を襲撃していったわけです。友だちの一人が携帯電話で撮った写真では、住民たちが安全なクルド自治区へ逃げようとして、それが大渋滞になっている様子が映っています。

ISはクルド自治区に入る道路を封鎖して、人々が逃げられないようにしました。そのため、多くの人々は近くにあるシンジャル山に逃げ込みました。2万から5万くらいの人が山に逃げこんだのですが、岩山で井戸がいくつかあるだけ。ISが山を包囲し、9日間くらいはどこからも助けがありませんでした。2014年の8月のことです。日本でも8月は暑いですが、イラクの場合50℃になることもあります。そうした中で、お年寄りや赤ちゃんなど200人が亡くなったわけです。9日間が過ぎた頃に、イラク軍や米軍が、水、食料、太陽熱で携帯に充電する器具を投下しました。これでやっと、水を飲んだり、携帯で外と連絡を取ったりすることができるようになりました。その後、シリア側からクルド組織による脱出路が設けられ、多くの人たちはシリア経由でイラクに帰ることになりました。

しかし、ISに捕まったヤズディ教徒もたくさんいました。ISは村を包囲して捕まえると、人々を学校や広場とかに集めて、男と女に分けます。豊能町で言えば西公民館の前とか、ときわ台駅前のロータリーといった場所でしょうか。そして、男性には「イスラム教に改宗しなさい」と言います。でも、いきなり改宗しろと言われても、それはできません。日本と違い、中東の人は、イスラム教の人はイスラム教、キリスト教の人はキリスト教という、宗教によって、それぞれのコミュニティがあり、それを守ってきました。例えば、キリスト教の人がイスラム教になるということは、自分のキリスト教の家族、親族、友だち全員と縁を切るのと同じことになるのです。ヤズディ教徒の人たちも、親の代から、そのずっと前の代から引き継いできた(ヤズディ教徒は、親がヤズディ教徒でないとなれない)ので、急にそんなことを言われても、できないのです。すると、ISは「悪魔崇拝をしているのだから、イスラムに改宗しなければ殺すしかない」として、男性たちは、銃殺されました。女性、年寄り、子ども、そしてイスラム教に改宗すると言った男性は、IS支配地域に連れて行かれ、奴隷にされます。女性や子どもは人間ではなく、戦利品という扱いです。

このパンフレットは、2014年にISが作った、女性奴隷の扱い方を書いたものです。ISのメンバーは、奴隷とはどんなものか知らないので、このパンフレットを見て、女性奴隷の扱い方を知るわけです。イスラム法を自分に都合の良いように解釈して、非常に細かく書かれています。たとえば、「女性奴隷に暴力を振るってもいいですか?」という質問に対して、答えは「だめです」。しかし、「しつけであればいいです」と。

女性や子どもは、ISの支配地域に連れてこられると、学校のホールや体育館に集められます。そこへISの戦闘員がやってきて、自分が気に入った女性を買うわけです。イスラム教では、4人の奥さんを持つことができます。結婚関係がなければ性的関係を持てないため、強制結婚するわけです。レイプするために強制結婚する。この映像は、ISの戦闘員らが、女性奴隷の売買などについて、語り合っている場面です。

そんな中で、女性奴隷にされた人たちが命がけで脱出してくるケースが出てきました。そうして逃げてきた女性を2014年秋頃から取材しています。今からお見せするのは2015年1月に取材したもので、19歳の女性のケースです。彼女は、当時妊娠中でしたが、ISの戦闘員と強制結婚させられ、暴力をふるわれていました。彼女がクルド自治区に逃げてきて2週間くらいのときに撮影したものですが、まだ傷跡が残っています。彼女は「私は何も悪いことしていない。顔を出して話したい。でも、自分の夫や親戚のことを考えると、顔を出せない。しかし、なかったことにはしたくない。胸の傷は撮って欲しい」と言われました。

次にお話しするのも、19歳の女性です。彼女はISに襲撃されたとき、8ヶ月の子どもを抱いて逃げようとしたが、捕まってしまい、村人たちとともに集められました。夫は「イスラム教に改宗しない」と言ったようで、銃殺されました。彼女は、夫が撃たれたところは見てないのですが、他の女性が見たと、後で聞かされました。

彼女は、8ヶ月の子どもや他の女性と一緒に、ミニバスに乗せられ、イラク第二の都市であるモスルに連れてこられます。そして、結婚式のホールのような大きな会場に女性たちは押し込まれます。戦闘員から「オレと結婚しろ」「オレの奴隷になれ」と言われましたが、彼女は「お腹の中に子どもがいる」と言い続けて、なんとか逃れていました。しかし、あるとき、ある男性から「結婚しないと殺すぞ」と言われたそうです。それで、彼女は諦めて、結婚します。

数週間後、「この生活には耐えられない」と彼女は思い、夜中に監禁された家をこっそりと逃げ出しました。彼女にとっては全く知らない街だったので、8ヶ月の子どもを抱いて夜中にさまよっていました、明け方になって「どうしよう、どうしよう」と思っていると、たまたま道の向こう側で水をまいている男性がいたのですね。彼女は、一か八かで、その男性に「助けてください。私はヤズディの女性で、ISにつかまっていた。このままだったら、私は殺されます」と言うと、その男性はびっくりして、彼女をかくまって助けます。それで、なんとかクルド自治区に逃れることができました。

私が彼女と会ったのは、脱出して2日目でしたが、彼女は、一点だけを見つめて、自分の辛い経験を話してくれました。私自身も辛くて、このときにビデオカメラを回せなかったんです。写真だけは撮りました。別れた後も、彼女のことがすごく気になって、何ヶ月後かに彼女に会いに行きました。ISに捕まっていたときにお腹にいた子どもを産んで、子どもにデルブリン=「壊れた心」ちゃんというクルド語のなまえをつけたそうです。そのときにたくさんの子どもが生まれましたが、ヤズディの人たちは、生まれた子どもに「何もかも失った」ちゃん、「逃亡」ちゃん、「絶望」ちゃんなど、ネガティブな名前をつけました。「なんで、そんな変な名前にするの?」と聞くと、彼女は「このままでは忘れ去られるから」と言います。自分の子どもにそんな名前をつけたら、「なんで、そんな名前なの?」とみんなが聞いてくれるだろう。そのときに、自分の子どもが「私のお母さんに、こういうことが起きた」と言える。だから、こんな名前にしたと、彼女たちは言っていました。

彼女たちは、シンジャルから逃げてきた親族28人の家に身を寄せていました。彼女は「夫や家族を殺された。自分はなんとか逃げてきたけど、イラクではISに代わるグループが出てくるかもしれないし、また攻撃されるだろう。だから私はもうイラクにいたくない」と言っていました。

次の年の4月に、彼女とドイツで会いました。彼女はドイツに渡り、夫の母、2人の子どもと一緒に暮らしていました。ドイツ政府は、ヤズディの女性や子ども2,000人を心の傷を癒すメンタルケアのために受け入れました。そして、難民として残りたい人がいれば、難民として申請すれば考慮するということで、彼女はすぐに手を上げて、ドイツに渡りました。ドイツ語学校へ通い、近所のドイツ人の女性たちが、チラシを切って単語帳を作ってくれ、それを壁に貼っていました。4人家族で月に1,300ユーロもらっていました。家は無料で、どこに住むかはドイツ政府が決める。近所の人々は全員ドイツ人で、同じ出身の人たちが固まると、なかなか言葉を覚えないとか、文化的なことにもなかなか理解を示さないかもしれないからといいます。2階には別の家族が住んでいます。彼女は、ドイツ語を覚えて、働いて、2人の子どもを学校に行かせたいと話していました。

彼女は20歳過ぎで若いので、いいのですが、お母さん(亡くなった夫のお母さん)は大変でした。彼女と一緒にドイツに来ましたが、苦労されていました。この方は、70代ではなくて、50代です。50代でドイツ語を覚えて、仕事を持って、そこで生きていくのは大変なわけです。難民について「お金儲けに行っているんじゃないか」とか「楽したいからじゃないか」とか言われたりしますけど、本当は生まれ育ったところにいるのがいいはずです。このお母さんはイラクに帰りたがっていて、一度イラクに帰ったんですね。「イラクに帰れてよかった」と言っていましたが、3ヶ月後にまたドイツに戻ってきたんです。なぜ戻ってきたかというと、彼女の子ども、孫、親戚が彼女の面倒を見なくてはいけない、彼ら自身も避難民で、家を追われた人たち。「ドイツにいたらなんとか生きていける、だからドイツに戻った」とのことでした。昨年秋にお母さんとスカイプで話しをしたときも、「帰りたい、帰りたい」と言っていました。でも、お嫁さんに聞くと、「そうは言っているけど、お母さんはもうドイツで生きることを決めたんです。今では、ダンケシェーンなどの言葉を覚えた」とのことでした。

彼女はなんとかドイツで暮らしているけど、今でもトラウマはあります。「あるときに、買い物に行くため、子どもと一緒に路面電車に乗っていて、どこかの駅で、黒いTシャツを着て、髭を長く伸ばしたドイツ人男性が入ってきた。それを見た瞬間、フラッシュバックで泣き叫んでしまった。周りの人が集まってきて大騒ぎになった。自分では、この人はドイツ人で、ISではないとわかっていたが、悲しい思いや叫びを止めることができなかった」と言っていました。彼女はメンタルケアで先生に来てもらったりしているけれども、そんなに簡単に治るものではないし、そこから逃れることができない。もう一つ言っていたのが、「私自身が奴隷にされて、何回もレイプされた。私は、一日に何回も殺された」ということ。そのことがなかなか理解してもらえない、そういう辛さがあると改めて思いました。

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