玉本英子さんのお話(その1)〜ジャーナリストになったきっかけとは?

2月3日の「玉本英子さんの話を聞く会」で玉本さんにお話ししていただいた内容をまとめました。4回に分けて掲載します。まず1回目は、玉本さんがどうしてジャーナリストになったのか、地元・豊能町にかける思いとは、についてです。

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お世話になっている人たちのお顔ばっかりで、ちょっと感激して涙が出てきてしまいそう。今日は、親が「行こうか?」と言うので「行かなくていい」と伝え、留守番をしてもらってます。まだまだ私も人間ができていないもので、その旨お赦しください。
もともとは東京生まれですが、幼いときから転勤が多く、最後にここに来たのが小学校5年生の時でした。光風台小学校の1期生です。一人暮らしをした時もありましたが、ずっとここで暮らしています。いまはアジアプレスという東京と大阪に事務所を持つフリーランスの記者のグループに所属して、事務所で仕事をしながら、海外で取材したことを、日本に帰ってきて発表するという仕事をしています。

私は最初からジャーナリストを目指すということは全くなかったんですね。社会的なことに少しは関心があったのは、父親が広島の被爆者で、親戚関係にも平和について考えるという方が多かったためです。でも特別にということはなくて、どちらかというと絵を描いたりすることが好きだったので、そういう仕事をしたいと思っていました。学校を出てから、新大阪にあるデザイン企画の会社に入り、そこで、パンのポスターとか、パンフレットとか、パッケージのデザインとかの仕事をさせてもらっていました。仕事には不満はなく、楽しかったです。

そんなふうに普通に楽しく過ごしていたんですが、1993年にたまたまテレビを見ていたら、外国のニュースをやっていて、ドイツで、クルド人が自分の体に灯油をかけて、機動隊に突っ込むというという衝撃映像でした。その映像を見て、ショックを受けました。普通、何かに反対する場合、石を投げたりして機動隊に立ち向かう人が多いと思うのですが、その人は自分の体に火をつけて、何かを世界に訴えようとしていていました。当時はインターネットもなく、なぜその人がそういう行動を起こしたのかわからなかったのですが、すごく気になっていて、半年近くたってから、実際にヨーロッパに行ってみました。

オランダにクルド人がいっぱい来ていると友人に聞いて、アムステルダムのクルド・カフェに行きました。そこでは、眼光の鋭い、髭を生やした男性たちが一杯いて、お茶飲みながら、ポーカーゲームしたり、新聞読んでいたりしていました。中には英語を話せる人もいて、クルド人の状況などを聞いていたりしたのですが、あるとき、私がテレビで見た、体に火をつけて機動隊に突っ込んだ男性がたまたま、そのカフェに来たんです。顔は忘れていませんでした。大やけどをしていて、髪の毛もなかったし、顔や手にケロイドができていましたが、すぐにあの人だとわかりました。その男性に「なんでそんなことをしたんですか」と聞くと、その男性は、「君も僕と同じような経験をしたら、同じことをする」と言ったんです。なぜ体に火をつけることまでしたのか、と聞くと、彼は「僕の故郷に行けばわかる」と言うんです。彼の故郷というのは、有名な観光地でもあるイスタンブールからは遠く離れた、イラクやシリアに近いトルコの南東部で、彼はトルコ国籍のクルド人でした。

彼の故郷で何が起きているのかを知りたいと思い、アムステルダムの人権団体に行って、素人なので何もわからず、「どこに行けばいいか?」「どこのホテルに泊まればいいか?」などを聞いていました。その半年後に、今度はトルコの南東部に行きました。しかし、私がトルコの南東部に行くにあたって、私自身がちゃんとした目的を持っていなければならないと考え、写真なら撮れるだろうと「フォトグラファー」の名刺を、英語で作りました。その名刺を使って、現地で「これが私です」と手渡しながら、話を聞きました。

1990年代前半は、トルコではさまざまな迫害が起きていたときです。クルド人はトルコ語とは全く違う言語のクルド語を話していましたが、南東部では、クルド語を公の場で話すと逮捕されるという事態が起きていました。自分の子どもにクルド語の名前をつけるのも許されませんでした。それに対して、クルド人が武装闘争を始めました。トルコ政府は、クルドゲリラに協力する人に対して、徹底的に迫害していました。本当はクルドゲリラに協力していないのに、拷問を受けた人もいました。人権団体に聞いたり、被害者の家をまわりながら現地のことを知っていく中で、こういったことをいろんな人に知ってもらいたい、と思ったのがジャーナリストを志したきっかけだったと思います。

仕事も辞めて、当時は景気も良くて貯金が結構あったので、中東に行って帰るを繰り返していました。しかし、ジャーナリストは何を伝えるかという視点をしっかり持たないといけないですが、素人なので、向こうで写真・ビデオを撮ったりしても何も伝えられない、雑誌社の人がそれを見て、「玉本さんはここで何を伝えたいんですか?」と聞かれても、うまく言えなくて「大変なことが起きているんです」と言うだけでした。ジャーナリストとしての勉強をしてこなかったので、最初はとても難しかったです。ただ、現地でいろんな人と友達になったり、少しずつ言葉を覚えたりとか、そういう関係性の中で、もっと真剣にやらなければいけないな、と思うようになりましたた。それからありがたいことですが、テレビ局のカメラマンの方に映像の撮り方を教わったり、アジアプレスで原稿のうまい方に教えてもらいながら、続けてきました。そのうち貯金もなくなってきたので、派遣社員をして、お金がたまれば現地に行くという形で、やってきました。今は、そんなにアルバイトをしなくてもやっていけるようになってきた。本当に周りの方々の助けがあって、続けられているという感じです。

良かったのは、ここが都会じゃなかったこと。能勢電の「ぐねぐね道」を通ると、山下からは先は笹部を除けば家もなく、なんか気持ちが収まるというか、もし都会に住んでいたら、気持ちが落ち着くこともできなかったかもしれない。そういう意味では、能勢電の「ぐねぐね」は好きですし、一の鳥居から光風台までの道路の「ぐねぐね」もそうです。話は変わりますが、あの「ぐねぐね道」は、町の外の人にとっては「いつまで続くんや」と必死で運転するところですが、皆さんは、レーシングチームに入ってもいいくらい、スイスイと走れる。乗っているだけで「自分の所に帰ってきたな」というところがあって、わたしは気に入っているというか、好きです。

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